未婚のまま出産……小林麻美が明かしたユーミン、芸能界のドンとの日々
「人生は短いのです。夜は長くなりました」
婉然と微笑みながら腕を組み、私の目の前に座った小林麻美の一言一言をどう紡ぎ、辿っていけばいいか――。『小林麻美 第二幕』(朝日新聞出版)の著者である延江浩は、「都市伝説のミューズ」というイメージに圧倒され、評伝を書くに当たって当初は試行錯誤の日々が続いたと振り返る。
高度経済成長、東京オリンピック、ヒッピー、ジミヘン、ウッドストック、サイケデリック、ミュージカル「ヘアー」、横田基地、三島由紀夫の割腹自殺……。
私にとっては異空間の出来事が連続した1960年代から70年代前半まで、濃密で騒々しく、儚い季節の真ん中にいた人物である。
彼女の言葉を持ち帰り、着ていたもの、ちょっとした所作や表情といった視覚的印象を重ね合わせ、あらかじめ集めた資料に照らし合わせていった。
ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリンなどのLPを聴く一方で、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」やザ・タイガースやザ・ゴールデン・カップスの思い出を語る小林麻美。さらに当時考えられないほど高価だったサンローランを10代で初めて着たエピソードなども。
パソコンのキーボードを叩くうち、この女性を「小林麻美」たらしめた時代とは? あるいは周囲の仕掛け人とは? を考えるようになった。
石岡瑛子しかり、田邊昭知しかり、松任谷由実しかり。小林麻美というアイコンを稀代のオブジェとして受け取り、演出と化粧を施し、時代に差し出した表現者の群像とその時代を追うことこそが小林麻美の評伝になるのではないか。
小林麻美は石岡瑛子のアートディレクションによるPARCOのCM「淫靡と退廃」で注目され、松任谷由実がプロデュースした大ヒット曲「雨音はショパンの調べ」で見せたアンニュイな大人の魅力は和製ジェーン・バーキンとも称され、「女が女に憧れる」というロールモデルでそれまでの日本女性のイメージを覆す鮮烈な印象を残した。
たとえば、PARCOのCM撮影における石岡瑛子との出会いはこんなくだりである。
「駿河湾を望む静岡・沼津港でクルーザーが私を待っていたんです。石岡さんはオーラがありすぎて、何だかよくわからなかった(笑)。夜でしたが、照明が煌々としてスタンバイは完璧でした」
CMのキャッチコピーは「人生は短いのです。夜は長くなりました」
「私は才能の集まる場所に足を踏み入れたんです。超一流と仕事をすることは、『魔術』にかかることだと知りました。ジャン・ルノワール監督の映画『ピクニック』のサントラを流しながら、石岡さんが踊れと私に言った。私は踊りました。黒いタキシード姿の男性に後ろから抱かれながら、自分はこういう世界が好きだったんだと気づいた。力が結集している場所に自分はいると」
「それを表現しないと死ぬしかない」とは坂口安吾の言葉だが、PARCOのCMは人生や人間の存在の意味まで考えさせるレべルの作品だった。
小林麻美との出会いを経て、ニューヨークに渡りパンキッシュなクリエイティブを発表し続けた石岡は87年、マイルス・デイビスの「TUTU」のアルバムジャケットでグラミー賞を受賞する。彼女が考案したジャケットにはアーティスト名はなく、鋭い眼光のマイルスの顔のみ。石岡にとってはマイルスも小林麻美同様、時代を表現する上でのオブジェだったのだ。
ユーミンとの邂逅
「読み終えるのが惜しかった」。ある写真誌の女性編集者が私にメールをくれた。『小林麻美 第二幕』の感想だった。「だから一日何ページかを決めて少しずつ読み、本の扉を閉じるようにしていた。この物語がそれだけ自分の物語になっている気がしたから」
彼女は小林麻美の10代の部分を繰り返し読んだという。
外に女性がいて滅多に家に帰らない父親。優秀な成績ながらピアノ教師と恋愛し、高卒後に結婚、家を出てしまった姉。父のいないストレスで体調がすぐれず一年にわたり入退院を繰り返した中学時代。普連土学園から文化学院への転入。有名作詞家との道ならぬ恋。赤坂ムゲンからの朝帰り。紫のエナメルのマイクロミニに白いブーツ。
10代の小林麻美は朝吹登水子訳のフランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』の文庫本を持ち歩いた。遠くにあって手が届かない。満たされないから切ない。憧れと切なさが同居するこの小説で「アンニュイ」という言葉を知った。
広告デザイン会社、ライトパブリシティ社長でクリエイティブ・ディレクターの杉山恒太郎は当時の小林麻美の印象をこう語る。
「生活感がなく、透明感というか、テレビに出てはいけない人なのではとはらはらしたり。惹かれながらもね。ファンタジーというか、その違和感がたまらなかった。ずっと見ていたい、でもそこにいてはいけない。そんなイメージでした」
サガンもそうだが、フランソワーズ・アルディ『さよならを教えて』、ソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』、レノン&マッカートニー『シーズ・リーヴィング・ホーム』、村上春樹『ノルウェイの森』と、10代特有の悩みと憧れを抱えながら時代の微笑みを味わうイノセンスとヴァージニティは幾多の青春文学と音楽を生んできたが、小林麻美のイメージはその群像に連なる。
ここでもう一人、ユーミンこと荒井由実を挙げなければならない。
14歳の時、立教女学院聖堂脇の小部屋にあったピアノで作詞作曲した「ひこうき雲」「ベルベット・イースター」「翳りゆく部屋」は繊細で純度の高い文学性、生と死に隣接する危うい少女性で、今もなお聴き継がれるエタニティを内包している。学年が同じ麻美とは東京に生まれ育ち、立教女学院、普連土学園とミッションスクールに通い、横浜、横田とアメリカ軍基地に出入りし、60年代のカウンターカルチャーのダイナミズムを共有していた。
ユーミンが小林麻美をプロデュースした「雨音はショパンの調べ」は時代を超越する名曲だが、並みのヒット曲とは違い、アンニュイですぐに折れてしまいそうな青春の儚さ。ゴダール、トリュフォー、クロード・シャブロルなどヌーヴェルバークのサントラの趣きがある。
都市の虚無を流離(さすら)い、時代の彩りを味わう10代だった。時代に巻き込まれ、光り輝くものに吸寄せられるのみの麻美だった。それが彼女の限界であり、色あせない魅力でもあった。
未婚のまま出産
「乱れのない人生は間違っている」とは村上春樹の言葉だが(「村上RADIO」 TOKYO FM)、美しい乱れこそが表現の座標軸だと信じ、高貴と狂気を武器に宝探しを続ける表現者にとって、小林麻美はけがれなく無垢な素材だった。結果、麻美は時代を刻印するミューズとなり、それまで主役と目された多くの人物は遠景に追いやられてしまった。
出産・結婚を機に、小林麻美は突如芸能界から姿を消すが、それは初めて表明した自分の意志だった。時代のアイコンだった彼女のプライベートは徹底して秘匿された。特に所属事務所社長である田邊昭和との恋愛関係は、(互いに独身であるにもかかわらず)芸能界のご法度として徹底的に。
大量の酒とタバコ、そして睡眠薬。麻美は悩み、夜な夜な芝浦のゴールドに繰り出し、身を委ねる日々が続いた。
そこに突然の妊娠発覚である。彼女は自分を強く押し通す。
未婚のまま出産したのだ。
「小林麻美」は世の中から消える。双子のように仲の良かったユーミンとの交際も途絶えた。鮮やかな女の決別だった。25年間は果てしなく長い。しかし、その時間をかけて彼女は怒涛の生き方を少しずつ調整していった。乗り合いの電車やバスに乗り、イトーヨーカドーで食材を買い、息子の通う学校の役員会仕事に励み、普通の人になっていった。ある意味、それまでの人生に豊かな滋養を与える休息の時間でもあった。
「小林麻美」という芸名を脱いだ25年の空白について、彼女は冗舌だった。
「小林麻美」が伝説なら、夫の田邊昭知の存在もまた同様。いわば伝説と呼ばれる者同士の家庭である。
田邊は息子を、目の中に入れても痛くないほど可愛がった。
「『忍者戦隊カクレンジャー』のショーを観に真夏の後楽園ゆうえんち(現東京ドームシティアトラクション)や、少年空手大会の応援に真冬の荒川区民会館と、それまで行ったこともないようなところに息子と出かけていきました。私が作ったお弁当をカバンに入れて駅や地下鉄を乗り継いで。それまでの人生や生活とはかけ離れた、子どもとの関わりが楽しかったんだと思います。息子の学校の行事にしてもほぼ皆勤。彼にとって、息子と歩く東京は新鮮だったのではないでしょうか」
田邊昭知はある意味で芸能界の象徴ともいわれる人物である。その彼が、こうして父親になっていく姿を私は想像した。
どこにでもある家族の日常。かつて父の不在に苛(さいな)まれた麻美だったが、ここで私はこんな事実を知る。
「父性の喪失が、私たちの共通項だったのかもしれません」と麻美が言った。「東京の真ん中の有楽町で生まれて、泰明小学校に通った。彼の母は女手一つで、年の離れた妹を含めて4人の子どもを育てたそうです。彼はお母様が64歳でこの世を去るまでずっと一緒にいました」
新たな伝説
息子が大学を出て、無事就職。さてこれからどうしようと、麻美はオープンテラスの青山のカフェにいた。
トイレに立ったとき、懐かしい顔と再会する。ファッションプロデューサーの岩崎アキ子だった。岩崎こそ、かつて石岡瑛子によるPARCOのCM「淫靡と退廃」を仕掛けた人物だった。
「麻美さん、仕事を再開するけど、どう?」
岩崎はすぐさま動く。電話をかけた相手はマガジンハウスの淀川美代子だった。これが女性誌「クウネル」表紙での衝撃の復活劇に繋がる。編集長の淀川にしても、「雑誌に麻美さんに出てもらうのは逆立ちしてもダメだろうと思っていた」矢先の連絡だった。
麻美は四半世紀ぶりに撮影スタジオでカメラの前に立った。自然光が降り注ぐ新木場のスタジオだった。当日朝、大丈夫かしら、どうしようとドキドキした。
衣装は自分で選んだ。姿を消している間、日本服飾文化振興財団に寄贈した180点余りのサンローランのヴィンテージコレクションから黒いタキシードを用意した。激動の60年代、「スモーキング革命」なるムーブメントを起こしたサンローランはで史上初めてレディメイドとしてパンツスタイルのスーツを発表したが、そこには女性も既成概念と戦うべきだとの彼の信念があった。「タキシードは女性が着た方がはるかに美しい」という美学も。
10代の頃からサンローランに親しんだ麻美はそれを知っていた。「覚悟をもって着る」という言葉以上に、カメラのフラッシュを浴びる彼女の心境を表している表現はない。復帰に際してのキャッチコピーは、「小林麻美さん、伝説のおしゃれミューズ衝撃の登場!」
「プロにメイクをしてもらうのも何十年ぶり。自転車を久しぶりに漕ぐ気分でした。でも自然に乗れたんです。ずいぶん乗っていないから難しいだろうと思っていた自転車にすっと乗ることができて、自分でも驚きでした。昨日も撮影していて、きっとこれが明日も続くんだって思うくらいに」
小林麻美が表紙を飾った「クウネル」は多くのメディアが注目する復活劇となり、新たな伝説の一ページがめくられた。
スタジオでは連続するシャッター音が心地よかった。その心地よさは、人生の旅を経て程よく熱が冷め、芳醇な香りを振りまく自分への祝福も表していた。彼女はもはやオブジェでない。自ら道を切り開く人生の「第二幕」のプロローグとなった。
延江浩
1958年東京生。慶応義塾大学文学部卒。TOKYO FMゼネラルプロデューサー。作家。小説現代新人賞。主な著書に『アタシはジュース』(集英社文庫)、『いつか晴れるかな 大鹿村騒動記』(ポプラ文庫)、『愛国とノーサイド』(講談社)、企画・編纂として『井上陽水英訳詞集』(講談社)。2020年ミュージック・ペンクラブ音楽賞
1958年東京生。慶応義塾大学文学部卒。TOKYO FMゼネラルプロデューサー。作家。小説現代新人賞。主な著書に『アタシはジュース』(集英社文庫)、『いつか晴れるかな 大鹿村騒動記』(ポプラ文庫)、『愛国とノーサイド』(講談社)、企画・編纂として『井上陽水英訳詞集』(講談社)。2020年ミュージック・ペンクラブ音楽賞
週刊新潮WEB取材班編集
2020年5月3日 掲載
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夏目三久(32)と有吉弘行(42)との交際妊娠報道を叩き潰したとして、世間の耳目を集めている「新・芸能界のドン」。この、夏目の所属する田辺エージェンシー社長、田邊昭知氏(77)について、妻は元歌手の小林麻美と報道され、一体どうして、ドンはそこまで交際妊娠報道に激怒したのかという核心部分についての臆測や情報が、一部マスコミや関係者の間で出回りはじめている。
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